ジェイル・ザ・ゲイム-Jail the Game-1
暗い暗い闇の中に光を照らしてくれたのは誰だっただろうか。
その人は言った。私の目をじっと見つめながら、言い聞かせるように強く優しい口調で。
「大丈夫だから。俺は死にはしない。ずっとお前と一緒にいるから。」
私の目は涙で滲んでいた。その人の顔をしっかり見たいのに、次から次へと溢れる涙がそれを拒む。もう、これが最後かもしれないのに―――。
「嫌だ…嫌だ。行かないで!一人ぼっちはもう嫌だ!」
がむしゃらに叫んだ。目の前に伝えたい相手がいるというのに。
その人は微笑んだ。いつもの、柔らかな笑み。
まるでこれから起こることを予知していないような。
「よく聞いてくれ。お前は一人なんかじゃない。ほら、これを見ろ。」
手に握らせてくれたのは金色の懐中時計だった。
その人がずっと大切にしていたのを私は知っている。
親友との友情の証だと言っていたのを知っている。
「これでお前とずっと一緒だ。」
また、涙が溢れた。最後じゃないと言って欲しかった。
「お前は強く生きるんだ。苦しいことばかりじゃない。生きていればきっと幸せになれる。」
その人は両手で私の頬を包んだ。温かい―――。
けれどその手が闇と同化していってるのに気付いた。もう、時間は無い。
私はその人の手の上から自分の手のひらを重ねた。
「生きるんだ。死んだら化けて出てやるからな。」
また涙が溢れ出した。水溜りが出来そうなほどに涙した。
けれど目の前の人は着実と死に向かっている。それをどうすることもできない歯痒さが心臓をえぐるようだった。
「お前といれて楽しかったよ…。俺の為に泣いてくれるなんて思わなかったな。」
またその人は笑った。
私も楽しかった―――。初めて人と関わり、喜びを感じることができた。
想いは募るばかりで言葉にはできなかった。目の前で愛しい人が消えていくのを目の当たりにして、平常心を保てるほど非道な人間にはなれなかったから。
最後にその人は、私の額に口付けを落とした。
「ありがとう、アリセ―――。」
最近よく夢を見る。真っ黒な泥の中に沈む夢を。
底の無い闇は鼻から、口から、耳から襲いかかり、やがて呼吸することすらままなくなる。けれどそこにはどこか温かいような何かがあって、ほんの少し安心する。
暗闇というのは普通、恐怖感の塊というか、不安だとかそういうものの象徴だと思っていた。
けれどそれは違う。
まるで母親の腹の中でたゆたうような、そんな感覚だ。
目覚めはいつも最悪だった。ここのところずっとそうだ。
いつもの夢を見て、まるで水面から這い上がるような気分で朝を迎える。
正直あの夢は想像以上に体力を消耗するし決していい気分になるような夢では無い。うんざりしてはいるのだがそれを打破する術は無かった。
深い息を吐いて鴫野朝兎はベッドから体を起こした。
いつも通りの夢、いつも通りの朝。
着慣れた制服を着ていつも通り学校へ行く。何一つ変わらない日常。何一つ面白く無い毎日。
でもそれを毎日こなすことしか無い。面白いことは無いものか、そんなことを願っていても無駄だということに気付いたからだ。この怠惰な一日一日を生きるしか無いのだ。
耳にはヘッドホン、朝からテンションの上がるような曲を爆音で聞く。そして自転車に跨って学校まで行く。それも毎日決まったこと。
朝に聞く音楽というのは重要なものだ。その一曲で一日の気分が決まる。
同じだと思っていた今日。
けれど何かが狂い始めた朝。
力を入れてペダルを漕ぐ。周りにはまだ学生服を着た人間がちらほらと見えていた。信号を待ちながらなんとか遅刻せずに着くかと考えていた時、目の前に黒い影が差した。
自分よりは背が高い学生服の男を睨みつける。
「茅寫高のシギノアサトってのは、お前だよな?」
「あ?」
『あ』という文字に濁点がつきそうなほどに凄んで答える。
茅寫高等学校、通称チシャ高は朝兎が通っている学校の名前だ。
茅寫之市という都市にある学校の一つで、至って普通の公立高校。男女共学で偏差値が高いわけでも無く、低い訳でもない。そんなどこにでもある高校の一つだ。
自らの名前を呼ばれ、朝兎はヘッドホンを外す。
大音量で流れている音楽が漏れ出していた。
「ツラ貸せ。」
やけに図体の大きな男、その後ろには三、四人の仲間。その中に見覚えのある顔は無かった。ツラを貸せと言われて大人しく付いて行くほど暇では無い。
「俺チャリあるし、無理なんだけど。」
その的外れな返答に男は苛立ったようで、朝兎の腕を掴んで半ば強制的に路地裏へと引っ張り込んだ。
頭の隅で自転車が盗まれないかどうか、そんなどうでもいいことが気になった。
茅寫高校、二年C組。
空席を一つ残したまま、二限目の授業が終りチャイムが学校に鳴り響く。
休憩時間中のざわつく教室内。そこに遅刻者が一人ドアを開けて入ってきても、気付く人間はいなかった。
「おはよ、朝兎。遅かったじゃん。」
先程まで空席だった場所に鞄を置くと、友人の芹沢が声をかけた。
「はよ。」
挨拶だけ済ませて椅子に腰を下ろせば、芹沢も一緒になって前の机の椅子に腰を下ろした。
背もたれを抱くようにして座り朝兎の顔を覗き込む。
「どしたの?朝から不機嫌だねー。」
深めに椅子に座り、大きな溜め息をついて芹沢に答える。
「…朝から絡まれた。」
すると芹沢はけたけたと笑った。
それをじろりと睨む。他人事だと思いやがって…。
「いやぁ、それは災難だったね。で、結局どうなったの?」
「五人伸してそのままにして来た。」
すると芹沢は先程より楽しそうに笑った。
「噂が一人歩きするって言うけど、朝兎の場合は噂がバイクに乗ってるくらいの勢いで暴走してるよね。困ったら言いなよ?いつでも助っ人するから。」
すると人懐っこい笑みを見せる。
他人事のように話を聞きながら、それでもきちんと相手のことを考えている。
朝兎は彼のそういうところが嫌いでは無かった。
この学校で一番仲がいい、親友と呼ぶのには少し照れ臭い存在。
それが芹沢凛悟だった。
軽いパーマがかった明るい色の髪に、くりくりとした目。誰からも親しまれるような愛嬌のある外見に加えて、明るくて冗談の通じる人間だった。
芹沢はクラスでも浮いている朝兎に警戒するでも抵抗するでも避けるでも無く接してくれた唯一の人間だった。
今では他のクラスメイトとも接することはできるが、入学当初は酷かった。まるで腫れ物にでも触るような扱い。
それもこれも不良という噂が流れていたからだった。それもタチの悪い噂。
誰彼構わず喧嘩を売る、女子ども関係無く殴る、したことも無いことを影で囁かれていた。
それによって近寄る人間はおらず、終いには他校のホンモノの不良に絡まれる始末。
それを軽くあしらえばいいものの、朝兎にはそれができなかった。
何故かと言えば理由は簡単で、短気な上に喧嘩っ早い性格のせいだった。
『短気は損気って昔から言うでしょ?』
売られた喧嘩を買う度に芹沢から言われた。
けれどそれをどうすることも出来ず、気付けば口より先に手、手より先に足が出ていた。
そのせいもあって、前に一度だけ不良を殴っただけでそれが武勇伝と化し、今ではこの辺りでは有名な不良・鴫野朝兎という肩書きをつくってしまったのだった。
けれど芹沢はその噂を知っていた筈にも関わらず話してくれた。
明らかに浮いていた朝兎に対し、何の警戒心も下心も抱かずに接してくれた。それ以来、二人は気の許せる仲になり、初めて朝兎には友人と呼べる友達ができた。
こうして休み時間に話をするのも、今では日常と化している。
「そう言えば、どこのガッコの奴らに絡まれたの?」
朝兎はぼんやりとした記憶を辿る。確かあの色のブレザーは…。
「南校の奴らかな?制服がそれっぽかった。」
どうでもいいことのようにぽつりと零せば、芹沢の目の色が変わった。
「南校って言ったら結構有名じゃん。こりゃまたシギノアサト最強説が有力になっちゃったね。」
「なんだよそれ。」
芹沢の言う有名というのは、ガラの悪い人間が多いということの有名だ。
うんざりしたような表情を朝兎は浮かべる。しかしそれを気にも留めず、芹沢は口を開く。
「茅寫高の鴫野朝兎にこの界隈じゃ敵う者はいない説。」
「くだらねぇ。朝っぱらから絡むとか、本気でやめて欲しいわ。」
「帰りだと俺も一緒にいるもんね。だから絡めないんじゃない?」
芹沢も朝兎と同様、この辺りでは喧嘩が強いということで名が通っている。
けれどそれは不本意なもので、朝兎とつるんでいる以上そういう話が出来上がってしまったようだった。
実際に喧嘩を売られれば負けることは無いのだが、朝兎のように噂が噂を呼ぶようなことは無い。
理由として芹沢は売られた喧嘩を買うことがあまり無いからだ。背中を見せることを格好悪いとは思わない性格で、自分が乗り気じゃない時は上手く相手を撒いて逃げたりもする。
朝兎はそういうことが嫌いな人間だった。喧嘩を売られるとどうしても苛立ってしまう。
今日もそうだった。自分の身に覚えが無いことを言われ、理不尽に喧嘩を売られ恨まれていたことを知る。自分は何もしていないのに、知らないうちに勝手に話だけが一人歩きしていたことを知る。そうするとどうしてもやり場の無い苛立ちが募って手を出してしまうのだった。
それが悪循環になっていることは重々承知しているのだが―――。
「あ、始業ベル鳴った。」
聞きなれたチャイムの音と共に芹沢は席を立ち、それと入れ替わるようにして教師が号令をかけた。
これも全て、いつもと同じ日常。
昼休みになると朝兎は芹沢と二人でいつも購買へ行く。授業が終わってぐっと背伸びをしている所に芹沢がやって来た。
「早く行こうぜ。俺の大好きなマカロニクリームコロッケパンが無くなってしまう!」
競争率の高いパンはすぐに売切れてしまう。芹沢は急かす様に朝兎に言う。
席を立って教室を出ようとした時、出口で突然呼び止められた。
「鴫野くんっ。」
声のした方に視線をやれば、そこには同じクラスの赤月ののかがいた。
「何?」
「あっ、あのっ、えっと、今ちょっといい?」
至極緊張した様子で何度もどもりながら喋る。そんな赤月を見て芹沢に声をかけた。
「芹沢、先行ってて。後で屋上行くから。」
「なんか買っとく?」
「いちごオレ。パックのやつ。」
「はいはーい。」
芹沢は手をひらひらと振って行ってしまった。
赤月ののかは大人しそうなクラスの女子の一人だった。
けれど少し控えめなだけで決して地味とは言えず、何人かの女子と集団で行動しているのをよく見かけた。長い髪にぱっちりとした二重の目、くっきりとした目鼻立ちでカワイイとよく男子が言っているのを聞いた事がある。だからきっとカワイイ部類の女子なのだろう。
「あ、ご、ごめんね。これからお昼なのに…。」
「いいって。で、何か用?」
赤月はまだもじもじとしながら言葉を濁している。ずっと下を俯きながら話しているせいで、傍から見ると朝兎が脅しているように見えてしまう。さっきから廊下を通る生徒がチラチラとこちらを見ているのが少し気になった。
「あの、これ…。」
そう言って差し出されたのは一通の手紙。小花柄の可愛らしい封筒だった。
それを見てもいまいちピンとこない。
「何コレ?」
「鴫野くんに。」
「は?」
「あっ!私が書いた訳じゃ無いから安心して!友達に頼まれちゃったの…。鴫野くんに渡して欲しいって。」
確かに封筒には『鴫野朝兎くんへ』と書いてある。どうやらそういう手の手紙らしい。
「その子に自分で渡した方がいいよって言ったんだけど、どうしてもって頼まれちゃって・・・。」
正直こんなことは初めてでどうしたらいいのかわからなかった。それに見ず知らずの人間に手紙を渡されても困る。別に彼女が欲しいとも思って無い訳で、そもそも喧嘩っ早い不良と有名な男に手紙など渡す女子の気が知れない。
「あの、俺そういうのよくわかんないんだけど。」
正直に自分の思っていることを伝えた。
「そ、そうだよね。突然こんな手紙貰っても困っちゃうよね…。」
赤月は笑顔だったが必死で取り繕ったような笑顔だった。
「その子ずっと鴫野くんのこと好きだったんだって。だから手紙だけ受け取って貰うだけでもいいって言ってたの。だからせめてこの手紙だけでも受け取ってくれないかな?」
赤月の表情を見て首を横に振るわけにはいかなかった。
「…わかった。」
渋々その手紙を貰って制服のポケットに突っ込んだ。
「ありがとうっ。」
先程の表情とは打って変わって、赤月は花を咲かせたような笑顔になる。その顔を見て自分らしくないな、そんなことを思った。
屋上はいつも不真面目な人間のたまり場になっている。偶に別のクラスの人間がいたりするが、この日は天気がいいにも関わらず、屋上には誰もいなかった。
「何このファンシーな封筒―。まさかラブレター?」
寝転がっていた朝兎のポケットから芹沢が勝手に封筒を抜き出した。
「わっ、バカっ!勝手に見てんじゃねぇよ!」
朝兎が奪い返そうと体を起こし、手を伸ばす。しかし芹沢はそれをひょいと避けてみせた。
「さっきの赤月の用事ってコレ?」
朝兎は観念したように頷いた。
「でも赤月が俺にくれたわけじゃねぇよ。頼まれたんだってさ。」
「へぇ、誰に?」
「さぁ。」
「ねぇねぇ、中見てもいい?」
芹沢はニヤニヤと笑って言った。こういう物は人に見せてはいけないような気がするが…。
「どうせ中身も見ないで捨てようと思ってたんでしょ?」
思っていたことをまんまと見透かされて朝兎は顔をしかめた。
「俺が読んであげる。ちゃんと聞いてお返事してあげなよー。」
そう言って芹沢は封筒を開け、真っ青な空の下で声を出して手紙を読んだ。それを半ば上の空で聞いていた。
正直、返事をする気は無い。手紙も捨てようと思っている。
放課後は芹沢といつも帰る。お互いに部活はやってないし、気を遣わない相手だから楽だ。気が向いたら二人で街をふらふらして帰る。
この日は茅寫之市の中でも駅前の賑わった繁華街へと足を運んでいた。
「今日って新曲の発売日じゃん。俺忘れてたし。」
街中に飾ってある芹沢の好きなバンドのポスター。それを見て思いついたように言った。
「買ってく?」
「そうするー。」
一旦帰ろうと駅まで行ったのだが二人はCDショップに引き返すことにした。
横断歩道での信号待ち。ぼんやりと見ていると朝のことを思い出した。ふと視線を泳がせる。
「あ…。」
「どしたの?」
ぽつりと漏らした声に芹沢が反応し、朝兎の視線の先を見る。
「わーお、あれって赤月じゃん。」
その視線の先にいたのは赤月ののか。遠すぎて何を言っているのかわからないが、一目でどういう状況かはわかる。三人組のチャラそうな男に絡まれて困っている赤月。けれど抵抗できる訳も無く腕を掴まれ無理矢理連れて行かれようとしている。
「どうする?助けてあげんの?」
朝兎は無言でただ見ていた。どうせ誰か助けてくれるだろ。なんだかんだでああいう場合は誰かが見ていて…。
赤月の困った表情、周りをきょろきょろ見ているが誰も視線を合わせようとしない。でかい声でも出せばいいだろ。そんなことを思っていると赤月がビルの陰に連れて行かれた。
「…ありゃマズいだろっ。行くぞ、芹沢!」
「あいよっ!」
信号が青になったと同時に二人は駆け出した。
人は一度相手に弱さを見せると怯えてしまうものだ。初対面での軽はずみな態度が、後に大きく影響することがある。
例えば見ず知らずの男(しかも三人)に声をかけられた場合。
最初から強気な態度でナンパをあしらう様にすれば少しは状況もよくなるかもしれない。しかし声をかけられた瞬間に怯えたような、弱さを一瞬でも見せたらナメられることは間違い無い。
こういったことに慣れていない赤月ののかもその一人だった。
声をかけられた瞬間、道を尋ねてくるのかと思った。困っている人は放っておけない。そんな親切心から何故かこんなことになってしまった。
「あ、あのっ!放してください!」
思い切って少し声を張り上げたものの男達は怯む様子も見せない。
「ちょっとだけオレらと遊ぼうよ。名前なんていうの?」
「こんなカワイイ子見つけられたなんてラッキーだよなー。」
「てか茅寫高にこんな子いたなんて知らなかったし!」
男三人組に対してどうやって抵抗しようか。そんなことを必死で考えていた。しかもどんどん人気の無い所へと連れて行かれている気がする。
―――本当に、マズいかもしれない。
「お願いしますっ、放してください!」
抵抗して腕を振り払った。しかしその瞬間、自分が何をしてしまったのか気付いた。
振り払った手が勢い余って男の顔に当たってしまったのだ。
「痛ぇなぁ…。何してくれてんのさ。」
腕を引っ張っていたリーダー格の男が睨みをきかせる。
それは先程までのヘラヘラとした表情とは違う、怒りを露にした恐ろしい形相だった。
赤月はそれを見て小さく息を飲み込んだ。
「てめぇは黙って付いて来ればいいんだよっ!」
三人の中の一人が赤月の口を手で塞いだ。言葉にならない声を発しながら必死でもがく。
どうしよう、どうしよう!
怖い…誰か―――!
「黙るべきなのはそっちの方だろ。」
聞こえるか聞こえないかぐらいの低い声。男の肩越しに二人の影が見える。
声の主は―――。
「し、鴫野くんっ!?」
鴫野朝兎だった。
朝兎はリーダー格の男の背後に立ち、芹沢は無関心にその隣に立っていた。
「なんだてめぇ?この子のカレシかなんか?」
「いや、違う。」
そこはきっぱりと否定しておく。赤月に悪いと思った故の言動だった。
どうやら相手は朝兎のことをどういう人間か理解していないらしい。この辺りで有名な不良とは言っても、会ってもいない人間が顔まで知っているということは無いのだろう。
「だったら黙って失せろ!」
「失せるのはてめぇらだ。嫌がってんだろ、離してやれよ。」
その言葉にカチンときたのか、リーダー格の男は振り払うように赤月を離し、朝兎の目の前までやって来る。
「口で言っても聞く相手じゃ無さそうだな…。」
拳を握りながら、関節を鳴らす。
「そりゃてめぇも同じだろ。」
その発言が決定打となり、男の拳が振り上げられる。
「あーあ、またやってるよ。短期は損気って毎回言ってるのに。」
芹沢が呆れたように呟けば、朝兎に男の拳が襲い掛かっていた。
赤月がそれを見て息を呑むが、芹沢は我関せずという顔で二人を見ていた。
瞬時に朝兎はその拳を左腕で払いのけ、そのまま足を振り上げ、男の脇腹に蹴りをぶち込む。
一瞬の出来事に芹沢以外の人間は言葉を失った。
男は蹴り飛ばされ、それを気にするでもなく朝兎は赤月の前に盾になるように立つ。
赤月はと言えば安堵と先程までの恐怖からかぺたりと地面に座り込んでしまった。
「大丈夫か、赤月。」
ありきたりな『大丈夫』というその一言。しかし今の赤月にとっては大きな意味を成していた。その優しさに涙が出そうになる。
「大丈夫…ありがとう。」
逃げようとする残り二人。その二人を逃がすまいと立ちふさがったのは芹沢凛悟だった。
「オンナノコ虐めて逃げようってのは、ムシがよすぎるんじゃない?」
芹沢は笑顔で二人を見た。笑顔と言っても見ていて心が休まるようなものではなく、どこか脅迫めいたものがあるものだった。
「芹沢、いいよ。コイツ連れて帰ってもらおうぜ。」
朝兎は既に意識の無い男を顎で指しながら言った。
男の顔を見てみれば鼻血を出して白目を剥いている。なんとも滑稽だった。
「甘いなぁ、朝兎は。いいの?」
「もう面倒なことになるのはイヤなんだよ。」
そう呟けば怯えていた二人は意識の無い男を抱え上げ、脱兎の如く走り去って行った。
その後ろ姿に呆れながらも赤月ことを思い出して振り返る。
「もう大丈夫だから。」
なんだか照れ臭くて最低限の言葉だけを呟いた。
赤月は小さく震えながら涙目になっている。泣き出すまいとしているのだろうか、口元を手で覆っていた。
「ののちゃん立てるー?」
朝兎よりも社交的な芹沢は赤月の顔を覗き込みながら尋ねた。手なんか差し出して、ちゃっかり男前気取りだ。
と言うかまともに話したことも無いくせに『ののちゃん』は無いだろう。そんなどうでもいいことを思ったが口には出さなかった。
声をかけられた赤月は小さく何回か頷いて芹沢の手を取る。
「ごめん…。私、本当にドジで。」
「平気だよ。朝兎が助けてくれたからね。」
「別に大したことしてねぇよ。」
赤月は『もう大丈夫』と小さく言葉を発してスカートの砂埃を払った。
見るからに大丈夫では無い様子だったが、芹沢が手を貸そうとすると頑なに拒む。
強がっているのだろうか。朝兎にはよくわからなかった。
「芹沢くん、鴫野くん、本当にありがとう。大げさかもしれないけど、死んじゃうかもしれないとか思っちゃった。」
そう言う赤月の顔を見てやはり強がっているのだと確信した。
本人は笑顔で言っているつもりなのだろうが、表情はどこか曇っている。
「ののちゃん、本当に平気?家まで送るよ。」
「えっ!?いいよ、そんな!」
赤月の様子を心配しながらも大通りへ続く道を歩く。ここは人気が少ない上に建設中のビルに囲まれていて日当たりも悪い。
大通りからは人の通る姿や華やかな空気が漂ってきている。
「多分そうした方がいいかもな。俺も一緒に行くし。」
朝兎が念を押すように言うと赤月も納得したようだった。
三人が大通りに出た瞬間、朝兎の肩に鈍い衝撃が走る。
「痛ってぇ…。ぶつかっといて謝りもしねぇのかよ。」
人混みに紛れていく背中を見ながら朝兎は呟いた。もう誰が自分の肩にぶつかったのかもわからない。
「ん?落し物かな、コレ。」
芹沢が地面に落ちていたあるモノを拾う。
「かいちゅーどけーってヤツ?」
鎖のついた金色の懐中時計のようだった。芹沢は鎖の部分を持ってブラブラとさせている。
「さっきの人が落として行ったんじゃない?私見たからわかるよ。」
赤月が遠くを指差して言った。
「ほら、あの真っ黒な服着てる女の子!髪の毛二つに結んでる。」
朝兎は指先を目で追って赤月の言っている人間を目を凝らして探した。
確かに人混みに埋もれながらもツインテールの頭がチラチラと見えている。
朝兎は咄嗟に芹沢の手から懐中時計を奪った。
「悪い、芹沢!赤月のこと頼む!」
気付けば走り出していた。
足は勝手に動いて前へ前へと力強く踏み出している。見知らぬ人に何度も謝りながらツインテールの頭を追った。