ジェイル・ザ・ゲイム-Jail the Game-8








部屋を出ると、そこにはレイトともう一人、フードの人間が立っていた。

「オレは下っ端だからあんまり自由にできない。ということで、この方がキミの要求を聞いてくれるらしいから。」

するとレイトは朝兎の肩をぽんぽんと叩き、自分はまた部屋の扉へ寄りかかった。
アリセが傍観者と言っていたのを思い出す。レイトはジェイルの番人でありながらどちらの味方につくことも無い。きっと傍観しているのが楽しいのだろう。

「シギノアサト、お前の要求を聞こう…。」

フードを被った人間は男か女かもわからない。レイトと同じような服を着、存在自体が疑わしく感じられる。
まるでフードの中身は空っぽのような、肉体が存在していないような感覚がした。

「俺の要求は一つ、アリセを殺さないでくれってことだけだ。」

単刀直入に伝える。表情が見えないので、相手がどういった心情でこの言葉を呑んでいるかがわからない。
朝兎は言葉を続けた。

「その代わりに俺をジェイルに、ゲームに参加させてほしい。」

「して、お前の払う犠牲は何か。答えよ。」

嘗てアリセが悠兎を救ったときのように、自分も何か代償を払わなければいけないことはわかっていた。
けれどこの番人を目の前にして、自分の言葉で全てが大きく変わることを再確認する。言いようの無い緊張が朝兎に襲い掛かった。

「一つは、さっき言ったように俺がゲームに参加することだ。
それだけじゃきっと不満だろうから…コレの所有権を俺にすることを条件に、ゲームに参加する。これでどうだ?」

朝兎はポケットから銀色の懐中時計を出し、それを番人に見せ付けるように示した。
その時計は単なる時計では無い。アリセの魂が入れ込められた、命と同等の価値がある時計だ。

番人がそれを知らない筈は無い。

時計の所有権が朝兎にあるということは、必然的にアリセを殺す為には朝兎を殺さなければならなくなる。

「貴様如きがあの堕とし子の魂を背負えるのか?」

当然の返答だった。
自分自身にどれだけの力があるかもわからない。呆気なく殺されて、アリセも死んでしまうという最悪の結果にもなり兼ねない。

―――けれど、朝兎にはアリセと交わした約束がある。

信じると約束した。信じてくれると約束した。
朝兎には意地でも守らなければならないものができた。

「当然だ。あいつは絶対死なせない。意地でも守るって決めた。」

後ろでレイトが「かっこいいー」と冷やかす。いちいち頭にくるヤツで本当に嫌になる。

「その条件だけでは足りない。」

「ちっ…。予想はしてたけどよ。」

仕方無いとばかりに朝兎は溜め息をつく。

「なら、俺の魂と肉体を賭ける。ゲームで死ぬか、負けるか、どちらかの状況になったら体なりなんなり好きにしやがれ。
臓器を一つずつ取り出すでもいいし、拷問をするでもいい。俺はお前らの言うことに従う。」

すると番人はくすくすと笑いを零し始めた。

「成る程―――悪くは無いな。貴様の条件を呑むとしよう。」

朝兎は大きく溜め息をついた。とりあえずアリセの命は救われた。

「それでは契約書にサインを貰おうか。」

すると背後にいた筈のレイトが朝兎に近付き、一枚の紙を手渡した。

「契約書に有効なのは血判のみ。右下に押してね。」

そして小さなナイフを渡す。
朝兎はそれで親指に浅い傷をつくり、滲む血液を確認し、血判を押した。



もう後戻りはできない。後悔などしていない。

そう自分に言い聞かせた。

今はまだ実感が無いせいか、自分の判断が正しいか間違っていたのかはわからない。けれどアリセを救えたことで、安心感と小さな幸福感が心を満たすのがわかった。
血判を確認し、レイトは番人に契約書を渡した。

「オメデトウ。これでキミも晴れてゲームの参加者だ。」

わざとらしい拍手、そしていつものニヤニヤとした企むような笑顔。
もしかしたらこの男の口車にまんまと乗せられたのかもしれない。

今になってそんなことを思った。

フードを深々と被った番人は、手のひらを朝兎の目の前に翳した。

「今、キミにロウの力を与えてる。アリセと一緒の力だよ、よかったねー。」

番人は手を下ろしたが、体に違和感などは感じられなかった。本当にロウを使えるようになったのだろうか。

「私の役目は終わった。レイト・アムカマラ、後は任せた。シギノアサト、貴様の運命、しかと見届けよう。」

最後の一言は、どこか楽しんでいるような感じがした。
番人が闇に消えていく中、レイトは深々と頭を下げる。
一応この男にも礼儀はあるのだなと思った。



何も変わっていない。姿形や、見えている部分は何も。
しかし確かに何かが大きな音を立てて変わったのはわかる。自分の生きる道が、大きく変化した。まるで電車の路線変更のように、大きな振動と共に―――。

「シギノアサトくん、そんなにぼんやりしてていいのかな?」

最初はレイトの言葉を理解できなかったが、すぐに何を言っているのかわかった。
朝兎は振り返り、扉の格子から中を覗いた。


するとそこには予想もしない現実が広がっていた。
部屋の中には水のような、いや、泥のような真っ黒な濁った液体がじわじわと染み出てきている。それは段々と床一帯に広がり、アリセの服を濡らしていく。

「アリセ!おい、目ぇ冷ませ!」

アリセは気を失っているようだった。どれだけ叫んでも目を覚まさない。
ドアのノブをがちゃがちゃと回してもうんともすんともいわなかった。

「おい、てめぇ!鍵貸せよ!」

先程レイトが渡してくれた鍵のことを思い出し怒鳴る。するとあっさりと鍵を投げ渡した。
その鍵を使って急いで鍵を開けた。すると扉の隙間から泥がずるずると流れ出し、朝兎の足に絡みつく。
その気色の悪さに鳥肌が立った。けれど前に進み、アリセの体を起こす。

「アリセ、おい。目ぇ覚ませって。聞いてんのかよ、馬鹿!」

ぐらぐらと体を揺すってもアリセは目を覚まさない。ぐったりと首はうな垂れ、腕は力なく床についていた。
すると不意に、妙な音がした。
がちゃん、という音。それが何の音なのか、朝兎には容易に想像できた。

「アサトくん、外からかけた鍵って中から開くと思う?」


―――やられた。


「正解はバツ、外から開けた鍵は外からしか開くことはできませーん。何故ならここはジェイルの部屋という名の牢獄だからです。」

アリセ椅子の上に横たわらせ、朝兎は扉に駆け寄った。格子からは忌々しいレイトの顔がこちらを見ている。

「てめぇ…ふざけんなよ!」

「ふざけてなんかないってば。これはペナルティだよ。
番人からのご命令だ。ここからアリセリアを救い出して、初めてキミはゲームの参加者になる。
キミには既にロウの力が与えられてるんだ、ここから脱出するなんて簡単なことだろ?
まぁ…力を解放できればの話だけどね。」

この状況を楽しんでいるかのようにレイトは笑っていた。

「バイバイ、アサトくん。」

すると扉についていた格子が閉じ、そこには重い鉄の塊があるだけになった。

「くそっ!」

思い切りドアを蹴り、朝兎はアリセの元へと戻った。


既に泥は腰のあたりまで来ており、椅子の上にいるアリセでさえ危なくなっている。
泥はまるでヘドロのようで、体を浸けているだけで鳥肌が立つ。朝兎はアリセを抱きかかえ、成す術も無くただ立ちすくんでいた。

どうしたらいい…。力を解放する?どうやって!

そんなことを考えている内にも泥は確実に部屋を侵略していく。既に肩までやって来た漆黒は二人を包み込もうとしている。
朝兎はアリセを肩に担ぎ、できるだけ高い位置に顔がくるようにしてやる。けれどそれも悪あがきという程度にしかならない。

黒が迫る。泥が近付く。


漆黒に呑まれる―――。











体も、腕も、頭も、何もかもが黒に埋もれても、朝兎はアリセを離さなかった。
呼吸もままならない中、朝兎の意識は遠のいていく。けれどその手だけは離すことは無い。

死んでも離さないと、誓ったのだから―――。


『何故、お前はその子の手を離さないんだ?』


誰かが遠くで囁いたような気がした。
なぜ?そんなの簡単だ。約束をしたからだ。


『そんなもの単なる口約束で薄っぺらいものだろう』


違う。信じると言った、信じてくれると言ってくれた。
例え口約束だとしても、そこには確かな何かがある筈だ。


『確かな何か?漠然としているな』


うるさい。黙れ。

―――違うんだ。そこに何かがあろうが、何もなかろうが関係ない。
俺は単純にこいつを守りたいだけなんだ。


『それは、何故?』


それは―――。


ただ単純に、あいつといて楽しかったからだ。

やけに大人びていて、でも子どもで、仏頂面かと思えばよく笑うし、泣くし。
変に相手の気持ちを探るような真似して、でも全然わかってなくて。

あいつを見てると思うんだ。
この世で失われるべき命なんて一つも無いって。

あいつは最初、死ぬ為に生まれて来たようなもんだった。

けれど悠兎さんに救われて、その大切な命を俺の為に犠牲にした。
同情とか、恩とか、縁とか、色んなもんがあるかもしれねぇ。でも俺はただ、あいつを死なせる訳にはいかないって思っただけだ。

あいつは俺らと何も変わらない。
同じ人間だ。
命があるってだけじゃ、理由にならねぇのかよ。


『けれどその子はジェイルの堕とし子だ』


朝兎は胸に小さな確信を抱く。

ああ、きっとコレなんだ。コレが俺を動かす原動力になってるんだ。
そして不敵な笑みを浮かべ、呟いた。


「そんなもんクソくらえだ。中指立てて、唾吐いてやるよ。」


その瞬間、辺りを包んでいた漆黒が光へと変わった―――。









ただ、震えながら待つことしかできなかった。

「ののちゃん…朝兎ならきっと大丈夫だよ。」

そんな確信などどこにも無かった。そもそも何が起こっているのかすらわからないというのに。
けれどただ願うことしかできなかった。

「うん…。アリちゃんも、きっと大丈夫だよね?」

芹沢が力強く頷く。
赤月は朝兎が渡してくれた懐中時計をぎゅっと握り締めた。

鴫野くん―――。



すると急に辺りの空気が変わり始めた。
まるで地震が起きたかのように地面が揺れ、ぼこぼこと音を立てて飛沫を上げ始める。
そして爆発音と共に光があふれ出す。

液体化した地面は一層飛沫を上げ、辺りに飛び散った。
そこから現れたのは、そう―――。

「鴫野くんっ!」

「朝兎っっっ!!!」

アリセを抱きかかえた朝兎が、光と共に還って来たのだ。

赤月と芹沢は言いようも無い安心感に包まれ、抱えられたアリセを見て再び不安に駆られる。
朝兎が二人に近付くと芹沢がアリセを受け止めた。

「多分、気失ってるだけだから。大丈夫だ。」

よく見ればきちんと呼吸をしている。
赤月は安堵からか涙を流した。

「よかった―――。鴫野くんも、アリちゃんも無事で…。」

二人の顔を見て、なんだか朝兎の心も落ち着いた。
やっぱり助けてよかった。助かって、よかった。



胸を撫で下ろしていると、奇妙な音楽が耳に入った。
オルゴールに似た金属を弾くような音。不協和音のようなメロディが延々と流れ続ける。

「これ、何の音…?」

耐え切れずに芹沢が呟いた。
聞いていて気分が悪くなるような音色。

その発信源を探していると、奇妙なサーカステントがいつの間にか出来上がっていた。
公園内はそれほど広くは無い。その上サーカスがここでテントを張るなどとは有り得ない話だ。

カラフルなストライプのテントは、まるでもともとそこにあったかのように存在感を主張している。嫌な予感がした。

「アリセのこと、頼んだ。」

朝兎は立ち上がりテントを見据えた。
すると奇妙な音楽はぴたりと止まる。

「寄ってらっしゃい見てらっしゃい。楽しいサーカスの始まりだよ。」

気味の悪い声が響いた瞬間、テントが一瞬にして消え去った。



そこに現れたのはまさにサーカスの曲芸師のような面々。
ピエロのような格好の男に、上半身が分かれ下半身が一つに融合した女性。奇妙な人間ばかりかと思えば外見だけでは何をしているのか判断できない人間もいる。

そして一番後ろにいる奇妙な威圧感のある男―――。

仮面をつけてマントを羽織り、人間とは思えない程身長が高い。

「我ら【奇印サーカス団】。以後、お見知りおきを。」

するとサーカス団の面々は深々と頭を下げた。
朝兎は警戒しながら一人ひとりの顔を睨みつけるように見ていく。全く次から次へと変な奴らが湧いて出てくる―――。

「シギノアサト、と申されたかな?」

すると一番後ろにいた仮面の男が目の前までやって来た。

「私、このサーカス団の団長をやっております。どうも。」

すると大げさな動きで手を差し出す。それを一瞥して朝兎は口を開いた。

「何が目当てだ。アリセか?それとも他の何かか?」

握り返してもらえなかった手を引っ込め、団長と名乗る仮面の男は答えた。

「なかなか勘が鋭いようで。ゲームに参加されただけある。」

「いちいち回りくどいんだよ。とっとと用件を言え。」

すると団長の動きがぴたりと止まった。

「…端的に言いましょう。我々がここに来た理由、それは―――。


貴方が持っている時計を力ずくで奪う為です。」


すると細い鎖が何本も地面から生え、有無を言わさず朝兎に襲い掛かる。

「くっそっっっ!!!」

なんとかかわすが腕に、頬に、足に鎖が掠り、血が滲み出た。
息を荒げながらも体勢を立て直す。そしてそこで始めて気が付いた。



―――ロウに囚われた。



細い鎖はただ朝兎を攻撃していただけでは無かった。その動きには意味があり、鎖はまるでサーカステントの骨組みのように形を成し、その中央に朝兎を捕らえた。
焦りながらもどうするべきか考えていると、一人の女が口を開く。

「団長、私がお相手してもいいかしら?」

桃色と紫が入り混じったようなボリュームのあるカーリーヘアで、全体的に線の細い女だった。

「…ではお任せしましょうか。」

団長がそう呟いてマントをはためかせれば、一瞬でそこにいたサーカス団の面々は消えていた。
残ったのは団長と目の前にいる女のみ。

「既にお疲れのようだけど大丈夫かしら?」

くすくすと笑う女の顔は、あの猫目の男によく似ていた。
気付けば女はロウの中に既にいる。

「久しぶりに楽しめそうだわ。」

意味深な笑顔を見せて女が取り出したのは一本の長い鞭だった。
ブルウィップと呼ばれる棒の先にひも状のものがついた鞭で、サーカスで猛獣を躾けている時に使われるようなものだ。

「奇印サーカス団の調教師が坊やと遊んであげる。」

そう言うと女はにっこりと笑って地面に鞭を打ちつけた。

何度も見た光景のように、ロウの中の地面がまた液体化する。ずぶずぶと飛沫を上げる地面から大きな手が現れた。
そこから何が現れるのか予想ができない。
朝兎はただ傍観することしかできなかった。

「私が愛情込めて調教してきた奴隷が遊びたがってるの。可愛がってあげてね。」

地面から這い出るようにして姿を現したのは、初めて見たヴァーメインよりも何倍も大きな怪物だった。
その姿に朝兎の息が止まる。

「この子はね、ボトムって言うの。私が研究に研究を重ねて様々なヴァーメインを縫合させて出来上がった内の一匹。可愛いでしょう?」

目は赤黒く光り、様々な体を継ぎ合わせたような痕が所々に残っている。
全体的には人間らしい体つきをしているのだが、手足は獣のような形をしており、首が無く肩から頭と手が生えているような生き物だった。
人間とは言い難く、動物とも言えない、まさに怪物だった。

その姿を見てなんだか笑いが込み上げてきた。
自分でもよくわからない。諦めからくるものなのか、それとも好奇心からか―――。

「時計は渡さねぇ。守らなきゃならねぇ約束なんでね。」

そして朝兎は腕を地面へと沈めた。


ごぼごぼと地面が小さく飛沫を上げる。
ロウの力の解放の仕方がわかる訳では無い。けれど頭に何かが流れ込む。

自然と、わかる。



「出て来いっ―――!」



そう呟いた瞬間、幾本もの鉄の線が天へ向かって暴走し始めた。

「…有刺鉄線?」

女は呟きながらそれを鞭で跳ね除けていく。
朝兎の出した有刺鉄線は鎖で出来た巨大なテントをものともせず、それを突き破るように四方八歩へ伸びていく。

それは離れた場所にいた赤月と芹沢、そしてアリセにすら害を及ぼそうとしていた。
有刺鉄線が二人に襲いかかろうとした時に目の前に影が射す。

「あの野郎、まだ使いこなせてないな…。安心して、キミ達は俺が責任持って守るから。」

三人の前に現れたのはレイトだった。
朝兎はそれを横目で見る。

「こっち見てる余裕があるならそっちをなんとかしな!」

「うるっせぇな…。この馬鹿が言うこと聞かねぇんだよっ!」

こんなことで足踏みしてる暇じゃねぇんだ…。

俺はやらなきゃいけないことがあるんだ!守らなきゃいけねぇヤツがいるんだ!
朝兎は声にならない声を発した。



―――叫びのような、嘆きのような咆哮を空気中に響かせる。



辺りが静まり返り、舞っていた粉塵が晴れていく。
そこには先程とは見間違えるほど凛とした男が立っていた。

手には日本刀。有刺鉄線は規則正しく四角形を作り、まるで牢獄のような形を成していた。

「ロウのタイプは…プリズンってとこね。この坊や、なかなか骨のある子かもしれませんわね、団長。」

するとロウの外にいたマントの男はクスクスと笑った。

「ロウを取り込むまでの速さ、それに加えてこのテントよりも大きなロウを形成するとは。油断をしてはなりませんよ。もしかしたらとんでもない力を秘めているやもしれない。」

「わかっておりますわ。」

鎖でできたテントを飲み込むように出来たロウを見上げる。
正直、この状況を保つだけでも労力がいる。少しずつ体力が削れていくのがわかった。
けれど膝をつく暇は無い。

「おら、かかってこいよ木偶の坊。俺の相手はお前だぜ。」

手にした日本刀を真っ直ぐ怪物に向け、朝兎は不敵な笑みを漏らした。



ボトムという名の怪物も負けじと雄叫びを上げた。

「そうこなくちゃつまんねぇだろ。」

いつもこういうシチュエーションだった。

見知らぬ人間にいちゃもんをつけられて、そしてこうやって吹っ掛けられて、売られた喧嘩を買って。そうして勝ち続けてきたんだ。
そう、今までと何一つ変わらない。負けやしない。

ボトムはでかい体をドタドタと揺らしながら朝兎に襲い掛かってきた。そして丸太のような腕を振り上げる。
朝兎はそれを刀で受け止める。

「ぐっっっ!」

刃の方で受け止めたというのに、まるで鉄を食い止めたような手応え。
その馬鹿力ゆえに手がビリビリと痺れた。

「おらああああああっ!」

渾身の力を込めて振り払えば、ボトムはよろよろとバランスを崩し始める。
隙ありとばかりにそこを狙って刀を横薙ぎに振った。
ボトムの脇腹に刀が突き刺さる。
耳を劈くような悲鳴。悲鳴と言っても甲高いものでは無く、まるで地の底から響くような方向だった。

「耳が痛ぇ…。でけぇのは体だけで十分だろうが。」

うんざりとしながらも間合いを取る。
ボトムは暴れながらがむしゃらに手足を動かしていた。

「しっかりなさい!貴方の力はこんなものではないでしょう?」

そう言って女はボトムに向かって鞭を打ちつける。小さな悲鳴がこだました。

「あんな子ども一匹に手間取ってる暇は無いのよ。さっさと始末なさい。」

再び鞭を打てば怪物はよろよろと立ち上がりながら再び襲い掛かる。半ばヤケクソになったようにも見えるが…。
足を開いて怪物を迎え撃とうとした瞬間、足に違和感が走った。



足が、動かない―――。



瞬時に足元を見れば、そこには嘗て見た光景が広がっていた。

似たような状況を、味わったことがある。アリセに初めて出会った時と一緒だ。
足元に絡みつくのは人間の手に似た何か。それが朝兎の動きを抑制している。

女を見ればくすくすと笑っていた。

「くっそっ…!あの時のもてめぇの仕業かっ!!!」

やられた。何から何まではめられた。
目前まで迫ったボトムの太い腕が、朝兎の体を殴打した。

「がはっっっ!」

もろに喰らった。全身で怪物が繰り出した衝撃を吸収してしまう。
朝兎の体はまるで人形のように軽々と吹っ飛び、これでもかと言うほど体を叩きつけられた。
意識が飛びそうになっている中で女の高笑いが響き渡った。

「ボトムは一匹じゃなくってよ、坊や。そうね、貴方が想像していることはきっと正解だわ。
奇印サーカス団はジェイルという名のゲームに蔓延る虫を駆除してるの。
あの時は偶々アリセリアっていう大きな虫を見つけたから、ちょっとばかり悪戯したのよ。」

痛ぇ。今まで味わったことが無い痛みだ。
骨、折れてんのかもな…。色んなとこから血出てるし。

けれど朝兎は歯を食いしばって地面に拳を突き立てた。そしてゆっくりと立ち上がる。

やっぱり…運命とか、そういうものなのかもしれない。

「あら、まだ立ち上がる力があったの?」

刀を握ることすらままならない。
けれど俺は、立たなければいけないんだ。

「痛くも痒くもねぇんだよ、そんなもん。とっとと俺を伸してみろウスノロがあっ!」

口の中に溜まった血液を唾と一緒に吐き出し、朝兎は足を踏み出した。








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