お題小説【武蔵野ラクシュミー:1.はじまり】






■1.はじまり■



僕の人生は至って単純で、それでいてくだらない、一般的で何の面白みも無いものだ。



だからこんな所で第三者に伝えることなど何も無いし、まして伝えようなどとも思えない。僕の人生は語るほどのものなど無い。


彼女と出会うまで、僕はずっとそう思っていた。







僕は今、東京都はギリギリ23区外、武蔵野市は吉祥寺の駅前で頭を抱えていた。


そもそもここは僕の地元では無い。
東京などというハイソサエティな街に住めるような人間では無いし、そんな所に生まれる運の強い人間でも無かった。

僕の故郷は意外と大きいが存在感の薄い県、信州である。
そこで山と田んぼと川に囲まれ健やかに育ち、協調性も無く、強い個性も持たず、ただただのんべんだらりと暮らして育った結果がコレだった。

僕は望んで東京などに来た訳では無い。
県内、県外、様々な大学を受験し、受かったのが吉祥大学。
それがたまたま東京都武蔵野市、住みたい町ナンバーワンとまで言われる吉祥寺にあっただけの話だった。

住む場所もどこでもよかったのだが、たまたまマンションやアパートの経営をしている叔父がおり、その人が吉祥寺にあるアパートを紹介してきただけの話だった。

「吉祥寺はどうだい?今は若い人も、年をいった人もみんな吉祥寺に住みたいって言ってるくらいだ。いい所だし、大学も近いし、いいんじゃないかな?」

そんな叔父の話を「あー」とか「うー」とか言いながら聞いて適当に相槌を打ち、大学の近くでコンビニがあればどこでもいいという条件を満たしていたのが叔父の紹介した物件だった。

吉祥寺という立地にも関わらず、叔父と顔見知りという事で家賃も多少は安くしてもらえることになり、母も父も喜んでそこにしろと言い、結果こうして住みたい町ナンバーワンの吉祥寺に住むことになったのである。


上京してから一ヶ月。
やっとこの人混みにも慣れ、大学生活も軌道に乗り、自転車で吉祥寺駅の目の前を通った瞬間に厄介な出来事に巻き込まれた。



目の前で少女が倒れた。







僕はその少女を知っていた。
知っていたと言っても彼女と話したことがあるとか、知り合いだとか、そういうことでは無い。

僕は彼女を一方的に知っていた。

いつも夕方くらいになると吉祥寺駅の北口でぼーっと突っ立っているだけの女の子。
普通のどこにでもいそうな少女だったら僕の記憶にも残らなかっただろう。
けれど僕が彼女を覚えていたのは度々見たことがあるから、という訳では無い。

彼女のその異様な格好だった。

果たしてそれを奇抜と言えばいいのか、はたまた前衛的とでも言えばいいのか。


彼女はいつもロングスカートを履いていた。
それもつぎはぎだらけの。
パッチワークなのだろうか、そういうオシャレアイテムなのかさっぱり分からないが、僕にはどう見てもつぎはぎにしか見えなかった。

そんなアヴァンギャルドなロングスカートを地面につけ、歩けば廊下の掃除をしてしまうだろうと予想させるほどのロングっぷり。
それに上には何だか色々着込み、その上にまたレースを取ってつけただけのようなでろでろと長い丈のカーディガン。

どう見てもホームレスか何かにしか見えなかった。
だからこそ僕の脳裏に深く刻まれたのだ。


きっと吉祥寺駅を利用する人間は彼女を一度くらいは見たことがあると思う。
彼女はまるで吉祥寺駅名物のようになっていた。



そんな彼女が、目の前で倒れたのだ。







僕は狼狽した。果てしなく狼狽した。

目の前で女性が倒れ逃げることは出来ない。視線をきょろきょろと動かしても周りの人は見て見ぬふり。流石は東京砂漠。皆忙しなく通り過ぎるだけだった。

僕は自分の妄想がいきすぎる時が度々ある。
ここで彼女を助けなければ僕は一瞬にして凡人から悪人へと変わり、世間体や社会の目を気にしながら生きることになるに違いない。
そして駅前を自転車で通る度に「あら、あの人この前ここで倒れた人を助けずに逃げたのよ」なんて言われてしまうのだろう。

主婦のネットワークは侮れない。
主婦から主婦へ、主婦から夫へ、両親から子ども、子どもの友人、友人の友人、友人のいとこ、いとこのいとこ、いとこのはとこ、はとこが飼っているネコ、はとこのネコから近所のネコ、ネコ、ネコ、ネコ。

ネコのネットワークというのは主婦以上に侮り難いものがある。

武蔵野市一体のネコ会議で評判が落ちることを恐れた僕は、意を決して目の前の倒れた少女に声をかけてみた。
自転車を端によけ、僕はうつ伏せで倒れる彼女に声をかけた。

「あ、あの…大丈夫ですか?」

彼女は今日に限って更に奇異な格好をしていた。

いつも通りのつぎはぎスカートとカーディガン、それに加えて頭には薄赤のチェックの…三角巾…。
こういうもののオシャレな呼び方はわからない。
僕は流行に敏感でも無ければファッションに詳しいわけでも無いからだ。
スパッツがレギンス、チョッキがベスト、ジレと変化していることなど知らなくても生きていけるのだからそれでいいと僕は思っている。

という訳でそのオシャレ三角巾をした目の前で倒れている女性は返事を返さなかった。

「救急車…呼びましょうか?」

返事が無い。沈黙が怖い。
だが心の中で相手が返事をせず、救急車を呼び、「後はお願いします」という最高のパターンを想像してしまう僕は卑しいのだろうか?

そんなことを思っていると急に腕を強い力で掴まれた。
思わず「ひっ!」と妙な声を上げてしまう。


「ど…つ……うぅ。」


ど、つ、うう。

果たしてこの文字列は何を意味するのか。
どいつ?ドイツ?どげんかせんといかん、こいつ?それとも意味は無い呻き声なのか?

「ど…なつ…。」

「ど、なつ?」

ド夏?超ド級の夏ってことか?しかし今は春というのが正しい。

すると目の前の彼女は顔を上げた。
その距離の近さに、僕の胸は不覚にも音を立てた。

随分と小柄な彼女は頭も非常に小さく、長い髪を地面につけながら、潤む瞳で僕を見ていた。
小さなぽってりとした唇にまん丸な目。究極童顔とも言える彼女はまるで天使のように可愛らしかった。

しかしその天使が発した言葉がこれだ。



「ドーナツが…食べたいです…。」



まるで青春バスケット漫画のワンシーンのようだった。

「は?」

その言葉の意味を理解できずに僕は素っ頓狂な声を上げた。
ドーナツ?あのお菓子のドーナツで間違いは無いはずだ。

「お腹がすいて…でもお金が無くて…しかも寝不足でどうしようも無いんです…。どうか、どうかお願いですからドーナツを食べさせてください…。」

半ベソ状態の彼女。僕はどうしようもできなかった。
こんな厄介な女とは金輪際関りたくない、そう自問自答し僕は近くのコンビニにならあるかもしれないとその場を去ろうとした瞬間、また腕に激痛が走った。

「いだっ!!!」

「あなた、今、もしかしてドーナツと聞いてコンビニエンスストアかスーパーにある駄菓子のようなドーナツを思い浮かべましたか?それとも菓子パン系のドーナツを思い浮かべましたか?」


はあああああああああああ!?

なんなんだこの女!ドーナツ一つでベラベラと!
ってかお前、そんだけ喋れれば歩いて自分の家まで帰れるだろっ!

「残念ながらあれらは私の求めているドーナツでは無いんです。」

そう言えば駅の通りを行った所に某ドーナツチェーン店があったはずだが…。

「まさかあなた、この通りをまっすぐ行った所にある大手ドーナツチェーン店を想像していますか?残念ながらソレも私が求めているドーナツでは無いのです…。」

「じゃあどこの何ドーナツならいいんですか。」

苛立ってそう言うと彼女は瞳に生気を宿らせ、突然立ち上がった。

「私が案内します。だから自転車の後ろに乗せてください。ありがとうございます。優しい方ですね。よいしょっと…。」

「ちょっと、待ってください!勝手に話を進めるなっ!ってかなんだ、その荷物は!」

彼女自身がお荷物なのだが、その肩には巨大な真っ黒なバッグ。そして背中にはこれまた真っ黒の筒が背負われていた。

「これは私の大事なものです。さあ早く行きましょう!お腹が減って死にそうです!」




僕は彼女に声をかけたことを、心底後悔した。

こうして僕は何故だかわからないが、物乞いのような少女を乗せて、ドーナツ屋まで自転車をこぐことになったのだった。




お題小説【武蔵野ラクシュミー:1.はじまり】おわり



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