泰尚浪漫警衛團-壱ノ一:女学生と警視殿-








 私は、あの紅を忘れない。



 幼い頃の記憶は消し去った。
私の生は或る一点で停止し、崩れ、そして消え去った。其処で全てが終わった。

人生に遣り直しは利かないと人は言う。
然し遣り直す事は出来なくとも、逸れた道を正すことは出来るだろう。



 私の道は逸れていた訳では無い。そう思いたい。
高い望みなど持っていなかった。人並みに平々凡々とした生活が送れれば良かった。
けれど其れが叶うことなど無かった。

 人は生を選ぶことは出来ない。
或る程度の判断は出来るが、其れ以上の事は不可能で或る。

例えば、生まれて来る家を選ぶ事。
其れはどんな人間であろうと選ぶことは出来ない。
私がもし、或る二人の親から生まれ、其の家で育つことを拒めたのならば何かが変わったのかも知れない。
然しそんな事は単なる絵空事であり、今となっては後悔以外の何物でも無い。今さらそんな事を願おうと、思い返そうと、何かが変わるわけでは無いのだ。



 或る一点で、私の道は途切れた。
其処からまるで小さな草木の芽が息吹くように、新たな道が広がった。

 私が歩いて来た道のりは険しすぎた。
人も通ることを拒むような獣道で、暗く、不安と恐怖が常に追いかけてくるような。
新たな道は眩しいほどに明るかった。
此れ以上の幸福は無い、贅沢は無い、と常々思う。



 全ては、或る方の導きによるものだと云う事を、私は忘れない。



 あの日、目の前で散った紅を忘れない。




否―――忘れることなど、出来はしないのだ。







 世界の極東に位置する島國。其の名も【大日東帝國】。

首都の名は東卿(とうきょう)。東部一、そして日東帝國一、賑やかで大きな都市で或る。
其の東卿のほぼ中央に位置する市の、或る大きな西洋風の屋敷の部屋からラヂオの音が漏れる。

『アーアーアー。本日は晴天也。本日は晴天也―――。』

此の辺りでは知らぬ者は居ない程、大きくそして豪奢な屋敷・東三条邸。
数多くの部屋の中の一つ、此の屋敷の一人娘・栞華の部屋からラヂオの声が天気の良好さを告げる。

『大日東帝國は本日も晴天、安泰也。』

栞華は其の音を小耳に挟みながら鏡台に向かう。
矢絣の着物に女袴。典型的な女学生の服装に身を包み、髪を結う。
まるで黒玉のような滑らかな黒髪を後ろで一つに結い上げる。

『曇り、雨の予測無し。一日中晴れ間が続くと気象局は予測。』

大日東帝國は快晴の日が多い。
真っ青な空に飛行船が飛んでいく、まるで國の安泰を象徴しているかのような風景だ。
其の真下で洗濯物がはためき、電柱が高々と聳え、電線が風で揺れる。
青の中に浮かぶそれらが平和を告げているのが分かる。

『先日、帝國会議により決定した予算案は―――。』

其処でブチリとラヂオを切る。
政治の話は詰まるところが無い。朝から野暮な話題など聞きたくは無いものだ。

そもそも此の國の政治は生ぬるい。
平和呆けという波に飲まれてしまったのか、より良い國家にしようという努力が感じられないのだ。
今の政府は國家予算のことだけを考えていればなんとかなる、というのが正直なところだ。
きっとそんな事を言ったら父親に叱られるのだろう。そう思っていた矢先だった。

「お嬢様、旦那様の出勤のお時間ですよ。玄関でお待ちですので、お早めに。」

ドアの向こうで女中が声を掛けた。
半ばうんざりしながらも栞華は鏡台の前を立ち去る。

「今行くわ。」

そして急ぎ足で玄関へと向かうのだった。



 吹き抜けになった広い玄関ホウルを抜け、ドアを開ける。
其処には既に玄関先で自動車に乗る準備をしている父・聡明(としあき)が居た。

「鳴呼、可愛い栞華…。今日も別れの時が来てしまったようだ…。」

大袈裟な言葉を並べ、栞華を腕の中で強く抱き締めて呟く。
其れをあしらうかのように栞華は冷たい口調で突き放す。

「お父様、毎朝の事ですわ。」


 東三条栞華(ひがしさんじょう・しおりか)の父の溺愛振りは異常な程だった。
彼にとって栞華は自慢の一人娘である上、愛でても愛でても足りないくらいに可愛い存在だった。正に目に入れても、胃袋に突っ込んでも痛く無い程に愛していた。
其の親馬鹿振りは傍目に見ても明らかであり、毎朝同じ台詞に同じ抱擁をされる度に栞華の表情は冷めていくのであった。

「先生、そろそろお時間です。」

秘書の路羽(みちば)が無理矢理に栞華から聡明を引き剥がす。

「路羽さん、とっとと連れて行って下さいな。」

「其の積もりで御座います。ではお嬢様、お気をつけて。先生、行きますよ。」

路羽は聡明を車の中に押し込め、自分は運転席へと座りエンジンをかけた。

「行ってらっしゃいまし、お父様。」

「栞華!栞華あぁぁあああ!」

笑顔の娘とは対照的に、悲痛な叫びを車の窓から響かせる父親。未だに窓から顔を出し、娘の名前を叫んでいる。

「お嬢様、そろそろお時間ですよ!」

「嘘っ!?また遅刻は御免だわっ!」

鞄を持って駆けて来た侍女の言葉を聞いて、栞華は颯爽と自転車に乗り込む。
そして父を恨みながらペダルを踏み出すのだった。




 今の御時世、自転車に乗って通学する者はめっきり少なくなった。
現代では自動車が流通している為、其方の先進的な技術を利用する者の方が多くなった。

其の上、栞華が通う白百合女学院は名門校として名高い学校である。
故に裕福な家柄の人間が多く、生徒は自動車で優雅に登校するか徒歩で上品に通学するかのどちらかに絞られるのであった。

然し東三条栞華は違った。

「まあ、見て!東三条さんよ!」

「今朝も自転車で登校なさっているのね。素敵だわあ。」

「東三条さんだから素敵なのよね。」

「学年首席で容姿端麗、憧れの女性そのものだわ。」



「けれどまあ、今日も物凄い速さでご登校ですこと…。」



登校する女生徒の囁きを尻目に栞華は全速力で自転車を進めた。
遅刻するかしないかの瀬戸際である為、周りの人間のように優雅に登校する暇などは無い。故に栞華に対する小さな囁きも耳に入ることは無かった。
何故なら彼女にとって今一番大切なことは、遅刻しないということだけなのだから。

いつものように電光石火の如く駐輪場へと向かう。
自転車を置いて走って校内へ向かうと、其処で友人の畠巳緒子(はた・みおこ)に遭遇した。

「お早う栞華。あら、今日も息を切らしてご登校?」

巳緒子はクスクスと笑った。
彼女がゆったりと歩いていると云う事は、どうやら遅刻は免れたようだ。

栞華も歩調を合わせて巳緒子の隣を歩いた。

「朝から本当に疲れるわ…。」

「貴方の其の姿、後輩や憧れの目で見ている女性徒に見せてあげたいわ。」

そう言って巳緒子はまた笑った。




 栞華が本当はお転婆で、じゃじゃ馬で、サバサバとした性格だと云う事を知る人は少ない。殆どの生徒が知らないと言っても過言では無い程だ。

其の数少ない中の一人が巳緒子だった。
他の女学生は、栞華が容姿端麗で秀才の理想の女性像として、ある種の偶像の様に見ているのだろう。
栞華自身は自らを偽ったり、本当の性格を隠しているつもりは無いのだが、他の女性徒達が盲目過ぎるというのが事実である。

 事実、栞華は実に勉強熱心で異國の文化や自國の伝統、其れ以外にも幅広く興味があった。故に生徒ばかりで無く教師からの信頼も篤かった。
其のせいもあってか、放課後は挙って女性徒が栞華の周りに集まる。

「東三条さん、此処はどういう数式に成るのかしら?教えて下さらない?」

「此れはこちらの式の応用。ほら、こうやって…。」

「栞華さん、私もいいかしら?こちらの文法なのだけれど…。」

此の日も何時もと同様、女性徒に囲まれながら勉強を教えていた。


 白百合女学院は女子の憧れの学校。勉学が好きな女子ならば、目指す所は名門白百合なのである。
其の中で一際目立つ存在の栞華と交流を深めたい、勉学を教えて欲しいと思う女子は数多に居るのである。

「東三条君、東三条君は居る哉。」

突然自分を呼ぶ声がして栞華は会話を止め、声のする方に視線を向けた。
声の主は学年主任だった。栞華は立ち上がって主任の下へ駆け寄る。

「何か?」

「一寸来て欲しいのだ。来客が居てね、是非とも君に会いたいそうだ。」

当然、来客になど心当たりは無かった。然し今は言われるままに教員室に行くしか無い。
栞華は主任の後をついて行った。



 言われるままに教員室まで行き、主任が戸を開けた。

「いや、お時間がかかって申し訳ありません。何せ校舎が大きなものですから。」

苦笑を浮かべながらへこへことお辞儀をし、主任は中へと足を踏み入れて行く。其の目の前には制服を着た一人の男が立って居た。

制服と言っても学生服ではなく、其れは―――。


「お待たせしました、苑池警視殿。」

大日東帝國自警隊の制服だった。

すらりとした長身に、漆黒の詰襟の制服。帽子は手に持っている。腰には自警隊特有の西洋剣が帯びられていた。
栞華は其の姿を見て驚かずにはいられなかった。

「初めまして。大日東帝國自警隊警視・苑池晃静(そのいけ・こうせい)と申します。」

苑池警視は小さく頭を下げた。
目鼻立ちがくっきりとし、精悍な顔立ちをしている。そう年端がいっているようには見えず、此の若さで警視という地位に就いている事実を聞き更に驚いた。

「初めまして、東三条栞華と申します。自警隊の方が私に何の御用でしょうか。」

栞華は疑うような目つきで口を開く。
すると主任が其れを制するように口を挟んだ。

「東三条君、口答えはせずについて行きなさい…。」

まるで栞華が何かしでかしてしまったような口調だ。其れに抵抗するように言葉を発する。

「ちょっと、先生!私何もしてませんから!行き成り自警隊に連れて行かれるなんて、心当たりも何も無いですし、どういう事かも理解できないのですが―――!」

「先生はね、信じていたのだよ…。
君は成績優秀だがお転婆で、科学の実験標本の蛙を学校中に逃がしてしまったり、窓硝子を何枚も割ったり、学院長先生が大事にしている壺にお菓子を隠したりするだけで、
悪いことは何一つやっていないと思っていたのに…。」

「先生、其れって全部事故ですから。でも最後のは…って違う!私は何もしていません!」

「あ、あの…。」

主任と栞華の遣り取りに苑池警視が申し訳無さそうに割って入った。

「急な訪問、そしてお呼び立てに直ぐに二つ返事を貰おう等とは思っておりません。
栞華嬢、本日私は大日東帝國総統の命により此処に来ました。総統も時間の都合等御座います故、一先ずご同行願いたいのですが…。」

「厭。」

丁寧に謙って説明した苑池警視の思いを踏み躙る様に、栞華はきっぱりと言い放った。
其の瞬間に苑池警視の顔が引き攣る。

「こ、断るべき正当な理由でも在るのでしょうか?」

唇をひくひくとさせながらも苑池警視は尋ねた。栞華は其れにけろっとした表情で答える。

「私、未だ図書館に用があるのです。それにもう少し勉強もしたいですし。
其の上今日は繁華街に在る蓬屋(よもぎや)のぱふぇが半額なので行かなければ成りません。と云う事でお引取り願いますか。」

「よ、よもぎ屋?」

予想外の理由に苑池警視は思わず言葉に詰まる。
此の女学生は甘味と國家総統の命令を計りにかけ、甘味を取ったのだ。こんな馬鹿な話があろうか。否…其の馬鹿な話が目の前で繰り広げられている訳だが。

「毎週水曜日は蓬屋のすぺしゃる蓬ぱふぇが半額。女学生ならば誰でも知っていますわ。なので私は同行出来ませぬ。然様なら。」

栞華が踵を返すと、其の腕を苑池警視が掴む。

「待ち給え、君っ!ヨモギ屋だかヨヨギ屋だか知らんが、國家総統直々の命令だ!詰まり君には最初から断る権利等は無いっ!」

「だったら最初から無理矢理連れて行けばいいでしょう!?はっきりしない殿方ね!」

「ならば聞こう。」

苑池警視は荒ぶる息を落ち着かせ、必死に冷静を保ち問うた。

「もし私が最初からついて来いと言ったなら、君はついて来たのか?」


「いいえ。」


再び苑池警視の顔が大きく引き攣る。頭の中で何かがカチンと音を立てた。

「黙って聞いてりゃ、このじゃじゃ馬っ!さっさとついて来い!」

「ぎゃーーーっ!変態!何処触ってるのよ、此の破廉恥警視!性的嫌がらせで訴えてやるからっ!」

「学年主任、此の娘、お借りします。」

「放しなさいよ、此の変態―――っ!」

こうして栞華は苑池警視に無理矢理連れて…否、攫われて行ったのだった。
教員室はまるで嵐が去ったかのように静けさを取り戻した。







 黒塗りの大きな車に乗せられ、栞華は観念したように座席に身を沈めていた。
内装を見て噂の大型高級車だと分かった。外國産の贅沢車であり、政治家や芸能関係の限られた人間しか乗ることが出来無い車である。
運転席と後部座席に仕切りのようなものがあり、後部は広く寛げるように成っている。シートが向かい合うようになっていてまるで小さな部屋の様だ。

「君の父上から話は聞いていたが、全くの別人だな。」

正面に座った苑池警視が呆れたように呟いた。

「お父様をご存知なのですね。」

「勿論だ。政治家の東三条聡明殿と言えば、知らぬ者は居ないだろう。」

栞華の父は政治家だった。特に地位の高い人間では無いが、議員の一人である。
苑池警視のような政府の関係者なら知らない人間は余り居ないのだろう。

「本日の事で少しお話をさせて貰った。父君は君の事を“美しく、華の様に可憐で、淑やかな娘”だと。」

其の言葉に栞華はまるで苦虫を噛み潰したような顔をした。

「おえ…鳥肌立ってきた…。」

父がそう言ってくれるのは嬉しかったが、栞華はそのような娘では無い。
父の目にそう見えているだけだ。他者が見れば違うように感じるだろう。

「そんな顔をすると、父君が悲しむ。まあ蓋を開けて飛び出てきたのは、とんだじゃじゃ馬だったが。」

「お褒めの言葉、有り難く頂戴致します。」

栞華は皮肉を込めてそう言った。

「何時もそのような口調で淑やかにしていればいいものを。そもそも君は―――。」

「あっ!緋村屋(ひむらや)!」

「人の話を聞け、此のじゃじゃ馬が…!」

苑池警視が真面目な話をしようとしているのもそっちのけに、栞華は外の景色に釘付けになっていた。



 此処は大日東帝國一の繁華街、吟坐(ぎんざ)。
杏橋区(きょうばしく)に在る日東國の経済の中心地の一つであり、西洋文化の発信地として認識されている。

地名は嘗て貨幣鋳造、及び銀地金の売買を行っていたことから文字って吟坐と成った。
実用品等の小売も有りながら、富裕層お得意の老舗店、外来品店、百貨店も多くある。故に吟坐は高級志向の街として日東に君臨しているのである。

 栞華が目を奪われたのは緋村屋總本店(ひむらやそうほんてん)という製パン会社だった。

「ひーむらーやぁひむらーやー♪
ひーむらーやのあんぱん♪(あんぱん♪)
はじめのさいしょ、さいしょのはじめ♪
あんぱんなーらばひっむらっやへー♪
(台詞)お母さん、やっぱりあんぱんは緋村屋だね!」

突然歌い出した栞華に苑池警視はぎょっとする。
窓に張り付いていた栞華は、目線を吟坐の街並みから苑池警視へと移した。

「ご存じ無いですか?緋村屋のコマーシャル。」

「ひ、緋村屋?」

「もう、警視殿は頭がお堅いのですね。蓬屋も知らない上、緋村屋まで知らないなんて…。」

栞華は拗ねたように再び窓の外を見た。

其の瞬間、苑池警視は自らが何をしてしまったのか理解できなかった。だが栞華の機嫌を少々損ねたのには変わり無い。
何だか自分が詰まらない男に思えてしまった。

「晋拾句(しんじゅく)の有汰ビルヂング(あるたびるぢんぐ)の、大型動画受像機はご存知ですか?」

ふと頭の中に晋拾句を思い描く。
有汰ビルヂングには超大型のモノクロビジョン成るものが有る。近年に出来た物なので、それくらいは警視殿も知っていた。

「鳴呼、あれなら知っているよ。大型ビジョンと呼ばれている物だろう?」

「ええ、そうです。あそこでもよく流れていますし、ラヂオでも、テレビジョンでも目にしますよ。
緋村屋は大日東帝國で初めてあんぱんを作ったパン屋さんなのです。櫻あんぱんは非常に美味で、一度食べたらまた食べたくなる美味しさですよ。」

まるで幼子のように楽しそうに語る栞華を見て、女学生だということを実感せずには居られない。
此のようないたいけな少女に特別な任務を与えるのは如何なものかと、ふと思う。
然し此れは日東國総統命令、逆らうこと等は出来ないのだ。

「今度、連れて行ってくれない哉。」

栞華は不思議そうに首を傾けた。

「緋村屋でも、蓬屋でも。」

すると栞華はにっこりと笑った。


「警視殿がご馳走してくれるのなら。」


相変わらず口は減らない。とんだ生意気娘だ。





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